韓国旅行のこと
 前稿の「防災の手引き」は3月1日にラクスルに発注できた。来週はじめには届くだろう。確定申告は3月4日にe-Taxで申告書を提出して終了した。勘定項目の選定に困ったことがあったが、ChatGPTがとても良い回答をくれた。

 2016年(H28年)11月末、菊で少し儲かったので1人で韓国へ行った。妻は東京の次女のところに遊びに行った。当時は広島空港からが無かったので、福岡から仁川空港に入ってソウルで2泊し、韓国の新幹線KTXでプサンに移動して2泊、釜山から福岡空港、そして広島駅から中山間地域の我が家に至る計4泊5日という日程。ちょうどパククネ大統領の汚職問題が騒がしいときで、写真の光化門前は夕方になると抗議集会が開かれていた頃である。
 「なぜ韓国に行ったのか」とよく聞かれた。昔ならたぶん1人旅だし良からぬことを企んでいると思われたに違いない。行った理由は、韓国の農村、それも水田の風景を見たかったこと。さんざん東南アジアを訪ね歩いた中で韓国に行っいなかったこと。さらに言えば、働きものと云われる韓国と接してみたかった。
 ソウルの印象は、大都会だけど東南アジアの雰囲気、例えばウェットマーケット(屋台市とでもいうのか)が残っている。農家風の格好をしたオジイさんがスマホで地下鉄に乗り降りしている。

 地下鉄に乗っていたら席を譲られた。私が白髪だったためだろうが儒教思想のためかも知れない。嬉しかったがカムサハムニダは出てこず、Thank youしか言えなかったので日本人と分かったと思う。郊外のむかし日本の使節団が逗留したとかいうお寺のような施設を訪問したら、訪問帳を差し出して一文書けと言われた。英文でIt is much pleasure for me to write that ・・・などと書いたような気がする。韓国語の本を買ったが勉強していなかったので、食事(居酒屋での注文)には困った。ビヤ!のあとが出てこない。隣の人の料理を指さして注文していた。もう1つは寒かったこと。晴天でも気温が違う。刺すような冷気とでもいうのか。その頃から持病の頻尿に加えて微熱が出始めていた。でも、総じてソウルは好印象で、反日感情はまったく感じなかった。
 KTX(新幹線)で水田を見た。日本とほとんど変わらない。コンバインで稲刈りした跡がある。向かいの席にいたのは田舎風のおばあさん。言葉が通じるとは思えず、一言も口を利くことができず、ずっと窓から外を見ていた。プサンに着いたのは夕方暗くなってから。微熱が続いていた。
 プサンでは釜山近代歴史館や展望タワー、市場や商店街を見て歩いた。こっちは文字が読めないし、聞いても英語がなかなか通じない。でも雰囲気は感じられる。ソウルよりだいぶ暖かい。最終日は18時の飛行機だった。荷物をホテルに置いて観光し、ホテル前で空港行バスに乗って、その日の24時頃に自宅に帰り着いた。韓国は、機会があればもう一度行きたいと思わせるところ。現地で文字が読めないので、行く前によく調べて細かな計画を作ってから行くことをお勧めする。

 翌々日の月曜日に病院に行った。結局、膀胱炎との診断で、抗生剤を服用して良くなった。寒気の中を日本の晩秋の格好で歩き回ったことが原因の一端だったろうと思っている。

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     光化門の遠景         光化門の中で行われていた衛兵の交代式
2026.03.06 10:32 | pmlink.png 固定リンク | folder.png 息抜き | com.gif コメント (0)
わが町の農地について
 私の住む中山間地域の中学校区には、登記簿上の農地が4,980枚、418haあると聞いている。実際に水稲などを耕作しているのは1,480枚、約300haで、これは自分で4年前に2か月かけて約2千枚の農地を歩いて見て確認しているし、多面的機能支払の協定農用地面積とも良く合致している。その差(418-300=118ha)は、多くが昭和30年代までに開拓され、無理に水稲を作ってきた、山ぎわや川そばの、今は山林に帰ろうとしている農地だと思う。また、300haのうち273枚、72haは、見た目が1枚の水田に2筆以上の登記がある。つまり、アゼを抜いて広くした1枚30aや40aの優良水田である。ところが見た目1枚には地番が付いていない。番号を付けないと管理できないので、行政でもやっているのかもしれないが、やっていなければ、行政は水田の現状を把握していないことになる。この実態は、「eMAFF農地ナビ」を見ればよく分かる。
 面倒なのは、山林に帰りつつある農地で、10年弱前に「人・農地プラン」というのを、作付けされている100haを対象に作ったところ、市から返ってきたのは「すべての農地が対象になる」と面積が120haに増やされたことである。山林に帰りつつある農地が、こういう場面では登記簿に載っていると幽霊のようによみがえってきて、今の我々の足を引っ張る。
 「我が国の農地全てを使って」といった政治家がいるが、こういった現状というか、基本が理解されているのだろうか。幽霊のような農地を使うには大変な費用とその維持に多大な量力が要る。加えて、中山間地域の稲作は、水稲しか作る作物が無いから行われている側面がある。放置すれば草が生え、2年もすればススキがはびこって樹木も侵入してくる。年1回草刈りするのが最低限の維持作業だろう。稲作は、連作障害が無いので毎年同じ作業で済み、機械化も進んでいるので週末にできる。そもそもがコスト度外視な側面がある。加えて、20aも作れば子や孫に十分配ることができる。昨年からの米価高騰でジイちゃんの地位はとても上がった。ここに「コスト見合いの補助金」、「採算がとれる稲作」の算定はとても難しい。
 水田の課題をもう1つ挙げると、登記面積と水張面積があること。水張面積が稲作収量に関係する面積であるが、その把握は、私が知る地域では進んでいないし、制度面(農地バンクの賃貸契約など)で水張面積の記載を求めていないことがある。両者の差は、平地では数%程度だが、中山間地域では畔の大きさによっては1割を超える。
 要するに、昔からある農地制度が産業としての農業経営の足を引っ張っているということ。農地の個人所有を踏まえた上で、所有と利用を分離し、役所が関与した農地利用制度が作れないのだろうか。

 途中まで書いて別の事をしていたら、今日25日の中国新聞に「所有者不明農地・・・」の記事が出た。相続登記が行われていないだけで、別に珍しいことではない。所有者が亡くなっただけで農地はある。しかも写真の農地は作付けまでされている立派な農地に見える。前回の記事に書いたように、このような農地の賃貸契約をする際は、借りようとする耕作者側に書類作成が求められるということ。
 別の事とは、「防災の手引き」を作ることで、自治会役員の任期が終わる3月までが期限。約80ページの冊子だが、何人かで共同して作ったこともあり調整が大変で、最終稿のチェック期限が今日なのです。200部作って域内各戸と関係組織に配る予定。もう1つは確定申告、青色申告だけどサボっていたので集計作業が大変です。
 今回は、添付写真もファイルもありません。
2026.02.21 18:32 | pmlink.png 固定リンク | folder.png 息抜き | com.gif コメント (0)
農地の賃貸
 借りているほ場(水田、5aと3aの2枚)の賃貸契約の更新作業をした。
 10月初めに農業委員会から通知があった。R7年度からすべての賃貸契約は農地バンクを介在させた契約にする必要があり、11月中に申請しないと4月からの契約開始に間に合わないとも書いてあった。更新申請用紙も入っていたので記入・押印して11月26日に市役所に提出した。時間がかかったのは地主さんが広島市内に住んでいて封書で経過を説明して押印した文書を郵送してもらったため。
 さらに、1月5日に農地バンクから市役所経由で地域計画同意書が送付されてきた。これに借主と貸主が押印して提出しろという。1月中に出さないと農業委員会の審査に遅れ4月契約に間に合わないともいう。再び封書での依頼作業を始めた。13日に2人の地主さんから返信が届いて、その日の夕方に市役所に行って提出することができた。
 市の担当によれば、これで借主の手続きは終わりとのこと。後は農業委員会総会の承認を経て、県農地バンクから県庁に送られ、公示を経て最終的に承認されるのだとか。
 わずか2枚、計8アールの水田の賃貸手続きがこれだけ煩雑です。これを賃貸契約期間(普通は10年、私は齢なので5年)ごとに繰り返すことになる。この機会にこの農地賃貸の問題を考えてみた。

1.提出は出頭申請
  書類を市役所に持って行かなければならない。ネットもFaxも無縁

2.個人情報を借主が取得して申請
  市の文書には、「地権者の書類取りまとめと提出は耕作者(借主)が行うように」と書いてある。申請書の中には、地主の氏名、住所、生年月日、(関係機関による)個人情報の取扱い同意書、農地賃貸に関する事実や意向の確認もある。借主が地主の個人情報を扱うことになるが、それは個人間の信頼関係でということだろうか。
 もし地主が亡くなって相続が行われたら、借主は地主側の相続関係説明図なるものを作って提出する必要もあるらしい(様式が付いている)。これは地主の戸籍謄本を見なければ作れない。
 さらには相続人が相続登記を放置したため、登記簿の名義が祖父や曾祖父になっている例も多いと聞く。こうなれば借主が手続きすることはほぼ不可能である。

3.結果の想像
 例えば、地主のハンコを手元に置いて一切をやり過ごす、あるいはヤミ小作(文書契約ではなく口頭で賃貸の契約をして地代を払う)をするなどいろいろあるらしい。高齢化していたり農地への関心をなくした地主に代わって借主に契約行為を負担させる農地バンク経由の手続きは、結果的に農業生産の足かせであるだろうし、農地利用の実態を分からなくさせている一因ではないだろうか。

 農地は逃げないのだから、行政が地主に代わって農地情報を握り(法務局情報とリンク)、簡単な手続きでネットから賃貸契約ができないのだろうか。
 さて、寒波襲来中ですが、小菊の作業は始まっている。今日は盆咲親株の最終ピンチをする予定で、3月15日には、そこから育った穂を採って挿し穂をする予定です。親株ハウスの作業内容を付けておきます。

pdf.png 親株の育成.pdf
2026.01.12 11:49 | pmlink.png 固定リンク | folder.png 息抜き | com.gif コメント (0)
ビルマについて
 ビルマ(Burma)という国名を聞いたことがありますか。長くイギリスの植民地で日本軍が侵略、戦後しばらくして独立、ビルマ式社会主義という鎖国的な独裁政治が続いた。1988年に軍事政権になって国名をミャンマーに変え、徐々に日本を含む外国の投資が拡大する中で、2011年にオンサンスーチー(Aung San Suu Kyi)氏の民主政権が誕生、一気に経済発展するかと思われたが、2021年のクーデターで軍事政権化し現在に至る(Wikipedia参照)。そして先月のマンダレー大地震、紆余曲折、踏んだり蹴ったりの国である。
 この国に1982年5月から1年間、技術移転のため5人チームの1人として単身滞在した。さらに1993年頃から何度か遊びや調査で数日間訪問した。何人か知人がいるし、彼らの何人かとは日本で会い、数年前には彼らの1人の息子が自宅まで来てくれた。残念なことに、今はクーデターで中断、連絡もしない。
 
 1982年滞在時、調査で2人でマンダレーに飛行機で向かった。席は観光パスポートではなかったので操縦席のすぐ後ろ。ところが出発間際に軍人が2人搭乗してきた。結局、我々は後ろの席に移動させられ、軍人2人がその席に着いた。また、その頃一緒に飲んでいた知人が「Armyは我々を迷わないで撃つ」と云った。

 資源もあり皆働き者である。供与した機材を自分たちで修理しながら大切して維持できていた。たくさんの民族の中には、能動的な民族(例えばカレン族)もいれば楽観的というかノンビリした民族もいる。1983年に見た全民族の伝統芸能大会(のような催し)で、彼らの伝統舞踊を見てそう思った。この国に良いことが訪れることを願います。

 この写真は、たぶん1997年頃のシュエダゴンパゴダ(ビルマ最大のパゴダ)の回廊部分の風景(知人は写っていない)

 
2025.04.25 16:20 | pmlink.png 固定リンク | folder.png 息抜き | com.gif コメント (0)
ウェットマーケット
1997年頃の2年間をマレー半島の先端の国に拠点を置いて、東南アジアの国を訪ねて畜産業の調査をし、短い記事を書いていた。着任早々、ホテル住まいと慣れない仕事でストレスがあったのか、パニック発作を起こしたことがある。明け方、息が吸いにくくなってきて、あえぐような呼吸になった。ベッドに座って、病院のあては無く言葉も不安、どうしたものか、しばらく途方に暮れた。幸い次第に収まってきたのでその日も仕事に行ったことを覚えている。その後、同じ発作を起こしたことは無いが、症状からパニック発作だったことは後から知った。まだ、ネット検索機能が弱く、記事も電話回線で送っていたころのことです。
写真は、マレーシアのあるウェットマーケット(野菜、魚、肉を包装せず販売)の1人の売り子さんを、野菜の色の美しさに、真上から写したものです。青い色が売り子さん。

2025.02.05 17:50 | pmlink.png 固定リンク | folder.png 息抜き | com.gif コメント (0)
ベンガルタイガー
約四半世紀も前の話、2000年の正月をはさんでバングラデシュの首都ダッカに3か月滞在した。ちょうど2000年問題(プログラム上のバグで2000年になったとたん時計が狂う)のさ中だった。知人に聞くとバ国にはそんなプログラムを使った機械は無いので問題ない"No problem"とのこと。バ国が縫製業で発展する前の時代である。
知人の紹介でSunderban国立森林公園への2泊3日の遊覧船ツアーに参加した。バ国そのものが北部の一部を除いて低平地であるが、ここは原生林?やマングローブが生い茂る広大な湿地帯である。ここにベンガル虎が棲んでいて、運が良ければ見ることができるという。
船から降りてガイドの案内でマングローブ林を歩いて虎の足跡を見せてもらい、虎を見る塔にも案内してくれた。この塔に泊れば草むらの虎を見ることができるという。「虎が登ってくるのではないか」といえば、”No problem”とのこと。結局、美しい夕日を見ることはできたが、虎を見ることはできず小型船のエンジン音に眠れない夜を過ごしたことを覚えている。
写真が変色しているのはフィルム現像をダッカ市内でしたため。当時はそんなものだった。
alt   虎の観測塔
alt  虎の足跡を指さす警備員と観光ガイド
2025.01.27 09:18 | pmlink.png 固定リンク | folder.png 息抜き | com.gif コメント (0)

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